大樹寺

【大樹寺の草創】

松平八代墓

成道山松安院大樹寺は、安城城主、松平左京亮親忠法名大胤西忠が真蓮社勢誉愚底を開山として、文明7年2月22日に創建した浄土宗の寺院です。 創建のいきさつはこのように伝えられています。応仁元年8月23日、尾張品野、三河伊保の軍勢が多数で井田野に攻めました。 親忠は500騎程で伊賀村の東いらご縄手で迎え撃ちこれを撃破、細川、大沢まで追撃して潰走させました。 このときの戦死者を葬った塚は首塚とも千人塚とも呼ばれ、その後も戦死者達の亡霊が騒ぎ出し、塚がしきりに鳴動して近辺に悪病が流行します。 この亡霊を弔うために親忠は塚のほとりに念仏堂を建て、宇祢部郷福林寺の住職を招いて7日間の別時念仏を修し、その功力で亡霊を鎮めました。 この念仏堂が後の鴨田西光寺で、菩提寺として大樹寺が建立しましました。

【西光寺】

大樹寺の南約1kmほどの台地に西光寺があります。 西光寺には、桶狭間の戦い後に家康が大樹寺に逃げ込んだ際、追手の織田方と戦って倒れた多くの僧を葬った大衆塚があります。

【千人塚】

西光寺よりおよそ100mくらい離れたところに千人塚はあります。 家康から五代前の松平親忠が、伊勢貞親の東軍に従い拳母城主中条氏率いる土豪の軍と戦い、多数の戦死者が出ました。 その時の戦死者の首を集めて葬ったのが、この千人塚です。

【逸話】

大樹寺については、松平第九代の家康の次のような逸話が残っています。 桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に討たれたとき、家康は大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとしました。 大樹寺住職の登誉天室上人はこれをとどめ、「厭離穢土・欣求浄土」の教えを説き、家康に浄土念仏の教えの尊さを教えました。 それ以来家康はこの8文字を座右の銘とします。 この時家康を追う野武士の一隊が大樹寺を取り囲みますが、この「厭離穢土・欣求浄土」の旗を立て、門の貫木を引き抜いて奮戦し敵を退散せしめます。 これを大樹寺の陣といいます。